すべては学び(ときどき愚痴)。
自分自身に躁鬱の気があるのか、それとも文章を書くという行為が躁鬱を呼び起こすのか。
長く人工的な躁状態から解放されて完全な鬱状態です。
私の場合、鬱のときは人や社会にとても腹が立っていたりします。
それが自分に返って鬱になる。
こういうときは人を選びに選んで、疲れと怒りを移さないように愚痴ります。
(Mちゃん、Tちゃん、きょうはゴメンね)
***************************
自分を取り巻く「大・中・小」の理屈があります。
社会学者T・パーソンズはそれをルールとして「法律・慣習・道徳」ととらえました。
ルールまではいかないでも、身を守る行動規範をどこに置くかという意味では、
「社会・会社・自己」のどこを頼るかということでしょう。
カネばかりが重視されると、月々の生活費を払ってくれる「会社」が重くなるのは当然です。
そんな大・中・小の「中=会社」の、内々の論理ばかりに付き合わされると毒気が回ります。
でもそれは全部自分が悪い。
文句をいう前に、頼らず生きていける自己が足りないだけ。
今の日本では「中=会社」に従うほうがいいんです。(会社が面倒みてくれるうちは)
でも私は、その人が自己としてひとりで立っているかどうかにしか興味がない。
自分自身、儲けることも知名度も生活の豊かさも、どうでもよくなってきた。
見えないものを排してカタチあるものに頼るのが組織の論理。
見えないものを追い求めるのが個人の論理。
多くの組織人の皆さんのおかげで「たったひとりで生きていく」決意ができつつあります。
短期的より長期的な自分を鍛えることが大切。
どういう人には嫌われてもいいかがわかってきました。しばらくはこのペースで行きます。
すべては学び(ときどき愚痴)です。
posted at 23:59 in 日記・コラム・つぶやき
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/153995/45587101
この記事へのトラックバック一覧です: すべては学び(ときどき愚痴)。:



コメント